志賀政信さん

志賀 政信さん

Masanobu Shiga

会社役員・建設業

「寅さんになりたい」少年の頃の夢を一途に追った演劇人が、宮古で作る舞台

PROFILE

1979年宮古市生まれ。宮古高校卒業。専修大学進学と同時に、俳優養成所に入所。エキストラの仕事をしながら大学時代を過ごす。就職内定と舞台出演決定が重なり、内定を辞退して俳優の道に進む。体調を崩したことをきっかけに、26歳で帰郷。家業の建設会社で働きながら、消防団や青年会議所に所属。2017年より市民劇の制作に携わる。2022年「さらば義経」からは、役者としてだけでなく演出家としても活躍。母と妻、3人の子どもと暮らす。

子どもが叶えたい夢を
大きな声で言える町に

仕事の内容や毎日のルーティンを教えてください。

工事の会社を経営し、家の庭やフェンス、ウッドデッキ、カーポートや物置などを施工しています。毎日7時頃に起床して朝食を摂ったら、外に出て、登校する長男を見えなくなるまで見送ります。8時から事務所で始業し、現場に行ったりしながら17時半頃まで仕事をします。18時過ぎに家族で夕食を食べたら、それぞれに過ごします。お風呂はもちろん「福島湯」です。母が番台に座っていますよ。

志賀さんのおうちは、建築業のほかにお風呂屋さんも営んでらっしゃるんですよね。

祖父母が福島から宮古に来て始めたので、「福島湯」です。昔は「なんでうちにはひとりで入れるお風呂がないんだ」と思っていましたがね(笑)。

志賀政信さん

うらやましいです。エクステリア工事をするお仕事のやりがいを教えてください。

家を建てる時、外構にお金をかけようと思う人って少ないんですよ。住むのには必要ではないですからね。だからエクステリアは「お化粧」だと思っています。家にメイクしてあげて、建物にマッチしたファッションを着させる感覚で工事しています。イメージを伺って、色選びのアドバイスをしたりするなど、住む人の遊び心に寄り添えるのは嬉しいですね。

印象に残っているできごとはありますか?

震災後の住宅再建が盛んに行われていた頃、「家を全部フェンスで囲みたい」とおっしゃる一人暮らしの男性がいました。話を伺うと、震災で家族を亡くし、外界とシャットアウトしたいとのご希望で。でも、近くに保育園があり、子どものいる気配を感じたほうがいいんじゃないかと思って「全部囲うのはやめませんか?」と提案しました。迷っているご様子でしたが、結局受け入れていただきました。近くを通るたびに、その人のことを思い出します。

ご本人も、外が見えるおうちで快適に過ごされているといいですね。では、今後の展望を教えてください。

震災特需は終わりましたから、身の丈にあった仕事を、プライドを持って続けていくことですね。震災前とやることは変わりません。自分の生業が、地域の人の生活を明るくできればいいな、と思います。「家にいるのが楽しい」と思う人が増えるように。

志賀さんは、26歳で帰郷してから、様々な地域活動に参加していますよね。

演劇のほかに、消防団や青年会議所などですね。宮古に帰ってきてすぐに従兄弟が家に来て「消防団に入ることになっているから」と、近所の中華料理店の二階に連れて行かれて、半ば強制的に入らされました。消防団員って集まって飲んでいるイメージしかなかったんですが、有事の際はお互いがお互いの命を預かる仲間なんですよね。入って良かったです。

消防団活動はご自身に合っていますか?

実のところ、合わないと思うんです。火事場は嫌いですし、テンションが下がりますからね。人命救助をしようと思わないほうがいいんです。と言うのは、それよりも「死なない可能性を増やすこと」が消防団員の努めだと思っているから。平常時から防災意識を高める啓蒙をしなきゃいけないし、消防団員がまず気をつけて暮らすべき。ただ、有事の際に平常心でいられるように、訓練は必要です。そうすることで、地域の人にとって安心感を与えられるというか、心の支えになるような存在でいないといけないですよね。

消防団員の皆さんには感謝しかないです。いつもありがとうございます。さて、ここからは演劇人としての部分をお聞きしたいと思います。まずは、演じることに興味を持たれたきっかけを教えてください。

子どもの頃、近所に映画館がありまして。実家が銭湯を営んでいるので、新作が上映されるたびにポスターと招待券がうちに届いたんですよ。それで、しょっちゅう父に映画を観に連れて行ってもらっていました。いつも寡黙な父が、「男はつらいよ」を見ながら声を上げて笑うんです。それにびっくりして「寅さん、すげえ!」って感動して。後に、寅さんというのは渥美清という人が演じていると理解するようになるんですが、最初は「寅さんになりたい」から入りました。

そこから志賀少年は、人前で演じたりすることが好きになっていったんですか?

時代的に、志村けんさんが全盛期だったりもして「人を笑わせたり感動させたりするってすごい!」って、ずっと思っていたんですが、文化祭で主役に立候補するタイプではなかったんですよ。そんな思いを秘めていたら発酵してきて、行き着いた先が、「東京行って広末に会いたい」と…(笑)。

ずいぶん醸しましたね(笑)東京に行って俳優になることはスムーズに進んだのですか?

なんとか理由をつけて東京に出るには、大学進学だなと。親には内緒で、大学入学と同時に俳優の養成所にも入りました。そして、大学に行きながら、エキストラの仕事などをずっと続けていたんですよ。演じるほかにも、小説を読んだり、映画をたくさん観たりして過ごしていました。でも、親の手前、4年生のときには就職試験も受け、金融機関に内定も出ていたんです。

就職する気だったんですね?

それが、入社前の研修を受けている段階で、舞台出演が決まってしまったんです。野田秀樹さん作の「三代目、りちゃあど」という作品でした。もちろん「出ます!」と言って、内定を辞退しました。普通に就職すると思っていた父には「お前は今まで俺をだましていたのか⁉」と激怒されました。

そこから本格的に役者さんとして歩まれるんですね。どのような作品に出演されたんですか?

NHKの大河ドラマには、「武蔵」から「功名が辻」までの4年間、エキストラとして出演していました。「功名が辻」では、オープニングで時代背景を紹介するコーナーにひとりで出演しました。長篠の戦いで、信長が戦術として鉄砲を使ったということを、テレビショッピングのように紹介しました。かつらを被ってスーツを着て、「今回、紹介する鉄砲はこちら!」みたいな(笑)

すごい企画ですね(笑)。大きな作品に出演して得られたことは何でしょうか?

大河ドラマに出演している大スターたちの、支度の様子からカメラが回るところまでを間近で見ることができたのは、素晴らしい経験になりました。その後、体調を崩して宮古に帰ってきたのですが。

ご両親の反応はいかがでしたか?

役者になることに、あれほど激怒していた父親が「宮古にも劇団があるから大丈夫。宮古でも役者はできるぞ」って言ってくれたんです。実際、帰郷してからは、やはり悔しくて、映画にも小説にも演劇にも一切触れずに過ごしていました。

そうだったんですね。そこから震災を経て、宮古に市民劇が立ち上がりました。志賀さんは立ち上げから参加されて、3作目からは役者以外にも演出も担当されているんですよね?

はい、最初は盛岡の演出家にお願いしていたのですが、「宮古に根ざしたものにしていくために、演出をやってみない?」と声をかけていただいて。やってみたら「役者として出ているのって、楽だったんだな」ということが分かりました。0から雰囲気やカラーを作り上げていく仕事ですからね。

やはり、ひとつの作品を作り上げる作業は大変ですか?

それはもう、たくさんの人に迷惑をかけますし、みんなで喧々諤々しながら苦労して、何度も壁を乗り越えていく作業です。だからこそできる絆はありますけどね。そうして汗水やら涙を流して作り上げたものに対して、お金と時間を使ってお客さんが見に来てくれるわけです。カーテンコールで会場中から拍手をもらうと、苦労がすべてリセットされますよ。日常生活にはない素晴らしい瞬間です。

苦労した分、感動も大きそうですね。では、演者として役を演じる魅力を教えてください。

演じるということは、いったん「自分を脱ぐ」作業をするんです。生皮を剥いで、薄衣のような役を着る感覚。薄い羽衣のようなものですから、自分のベースは透けて見えるんですよ。ですから自分の汚い部分もさらけ出すことになります。これがクセになるんですよね。演劇という空間は、異質ですね。それが宮古にいても関われるのは、素晴らしいことです。

宮古で演劇をする利点は何だと思いますか?

こんなに大きな舞台で、「やりたい」と手を上げれば主役を演じることが出来るなんて、東京ではあり得ないことです。やりたい人がやれることが利点でしょうね。自己表現ができる場所に、こんなに簡単に手が届くわけですから。

今後はどのように関わっていきたいですか?

もちろん、舞台の上に立ち続けたいという気持ちはあります。それに加えて、続けていくためのモデル作りを考えていかなくてはいけません。「演じる」ということが身近にあるということを、宮古の人に分かってもらえるようにしたいです。見る、関わる、出る、どれでもいいからやっていただけるように。

演劇人としての夢を教えてください。

子どもたちが、大きな声で「役者になりたい」と言えるまちにしたいですね。私自身がそれを言えない子どもでしたから。誰もが、「板の上に立ちたい」と言える環境を作っていきたいです。

では、宮古での暮らしの満足ポイントや不満ポイントを教えてください。

不満はないです。気に入っていますよ。でも、満足ですとも言いたくない。もっともっと膨らませていきたいし、楽しんでいる人間たちが、宮古で楽しんで暮らしているよっていうことを、発信しないといけませんね。

志賀さんにとって、ふるさととは?

「死に場所」でしょうかね。宮古で死にたいです。ふるさとで「満足したな〜」と言って死んでいきたい。

希望とは?

役者になりたいと公言している子たちがいて、そういう子こそ希望ですね。そういう子を応援する大人しかいないまちにしていきたいですね。子どもたちが「◯◯になりたい!」と大っぴらに言えるまちに。

最後に、Uターンを考えている人たちにメッセージをお願いします。

今、皆さんは離れた町で苦労したり、いろいろな経験を積んでいたりしていると思います。一度、私たちの演劇を見てもらって、「宮古にもこんなことしている人がいるんだ」と興味を持ってもらえれば嬉しいです。宮古には本当に楽しいことや嬉しいことが転がっていますよ!

2022年9月取材

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